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大阪地方裁判所 昭和57年(わ)1780号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一本件公訴事実及び争点

本件公訴事実は、

「被告人は、

第一  昭和五七年三月一九日午後零時ころ、大阪市西成区萩之茶屋二丁目四番地萩之茶屋中公園において、かねて被告人になついていたA(昭和四九年一一月三〇日生)と遊んでいるうち、同児を連れ歩こうと考え、同児に対し、「飯を食いに行こう」などと甘言を用いて誘惑し、同児の両親に無断で前記公園から同児を連れ去り、付近の甲野食堂で食事をさせた上、国鉄阪和線天王寺駅から電車に乗車するなどして、同日午後二時ころ、同児を大阪府和泉市伯太町三丁目二二三番地先松林内まで連行し、もって未成年者である同児を誘拐し

第二  同日午後三時ころ、前記松林内において、同児と遊んでいるうち、同児が帰りたいと言って泣きだし、泣きながら被告人のもとから逃げ出そうとしたことに激高するとともに、このまま同児を立ち去らせれば右誘拐の事実が発覚し、検挙されるものと考え、とっさに同児を殺害しようと考え、所携の切出しナイフ(刃体の長さ約七センチメートル)で、同児の胸部、腹部、背部を一〇数回突き刺し、よって、そのころその場で、同児を腹部大動脈切破による後腹膜腔内出血により死亡させて殺害し

たものである。」と言うのであるが、

被告人は右公訴事実を全面的に否認し、弁護人も、本件では被告人と犯行とを結び付ける客観的証拠はなく、捜査段階で犯行を自白した被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書はいずれも任意性、信用性がないから、被告人は無罪であると主張するところ、当裁判所は関係証拠を子細に検討した結果、本件各公訴事実については何れも証明不十分と言うほかなく、被告人に対し無罪を言い渡すべきであるとの結論に達したので、以下その理由を説示する。

第二本件犯行をめぐる事実関係

関係各証拠によれば、本件犯行をめぐる基本的な事実関係については次のとおりであり、これらの事実については、被告人、弁護人もほぼ認めて争わないところである。

一  被害者の失踪及び被害状況など

1  本件の発生及び捜査の開始

証人B子の当公判廷における供述、第三八回及び第三九回公判調書中の証人植松静夫の供述部分、Cの司法警察員に対する供述調書、司法警察員作成の昭和五七年四月一二日付及び同月二七日付(見取図第一号)各実況見分調書、司法警察員作成の「未帰還児童手配用の写真入手について」と題する書面、検察官作成の捜査報告書、押収してある植松静夫作成の捜査メモ等の関係証拠によれば

本件の被害者Aは、昭和四九年一一月三〇日生、父C、母B子の長男で、家族とともに大阪市西成区天下茶屋北《番地省略》に居住し、昭和五七年三月当時同市立乙山小学校一年生に在籍していた男児であるが、同年三月一九日その日は卒業式の関係で学校が休みであったため、午前中から近所に遊びに出掛け、同日昼ころ同区萩之茶屋二丁目四番萩之茶屋中公園(通称「四角公園」)で友人とビー玉遊びなどをしていたが、同日午後七時ころになっても帰宅しなかったため、両親が自宅付近を捜すとともに西成警察署に相談、同日午後一〇時五〇分ころ正式に同署に迷子として届け出た。右届出を受けた同署警察官は、直ちに迷子手配の手続を取るとともに、翌朝手配用に母親からAの写真を提出させたところ、これに被告人の姿が写っていたことなどから、母親を同道して被告人に会い、さらに被告人を西成警察署に呼んで事情を聴取し、一九日昼ころ被告人がAを誘って右四角公園の近く、萩之茶屋《番地省略》の甲野食堂に行って昼食を取ったことを聴き出したが、その後についての被告人の弁明は、Aとは食後右食堂の前で別れ、自分は一人で天王寺公園に行った、と言うのであり、以後Aの行方についてそれ以上の手掛かりを得られないまま日時が経過した(なお、第四一回公判調書中の証人丙野一子の供述部分、第四二回公判調書中の証人丙川二郎及び同丙山三子の各供述部分並びに押収してある学習ノート一冊によると、当時被害者と顔見知りであった丙野一子は、そのころ行われた警察の事情聴取に対して、当初は三月一九日午後六時過ぎころ今池町でAを見たと供述していたが、その後の捜査でそれは前日の三月一八日のことであったことが判明した。また植松静夫作成の捜査メモによると、その後の被害者の行方に関しては、被害者が行方不明になった直後の情報として、南海電鉄今宮駅前で新聞を販売していた丙谷四子(当時七〇歳)が、三月一九日午後四時ころAが男女各一名と西方へ歩いていくのを見たという供述や、同日Aから、被告人に食事をさせて貰ったと聞いたと言う丁野一郎(当時小学校四年生)の供述、同日Aらとともに被告人にビー玉を買って貰って一緒に遊び、Aとは午後六時ころ別れた、との丁川二子(当時小学校二年生)の供述、同日Aと一緒に遊び午後三時一〇分ころ別れた、との丁山三郎(当時小学校一年生)の供述、同日午後二時から三時ころあるいは五時ころ萩之茶屋でAの姿を見た、との丁谷四子(当時小学校四年生)の供述などがあったことがうかがわれるところ、第三九回公判調書中の証人植松静夫の供述部分によればこれらはいずれもその後の捜査によって誤りであることが判明したと言うのであるが、どのような捜査の結果誤りであることが判明したのか詳細は不明であり、現在丙谷四子は高齢かつ病弱であって尋問は事実上不可能、その余の者はいずれも当時小学校一年生から四年生と言う若年であって今となってはもはや当時のことについて正確な証言を得ることは到底期待できず、現に丁川二子は第四一回公判期日に証人として喚問されたが、当時のことをほとんど記憶していなかったのであり、何れも現在ではその真否を明らかにすることは出来ない)。同年四月五日大阪府和泉市伯太町三丁目二二三番地先松林内において、靴下とズック靴のみを着けた全裸の男児刺殺死体が発見され、それが行方不明中のAであると判明し、大阪府警察本部が殺人事件として捜査を開始した。

2  被害者の発見現場及び死体の状況など

(一) 被害者の死体発見現場の状況

第四回公判調書中の証人丙丘五郎の供述部分、第五回公判調書中の証人戊野一郎の供述部分、司法警察員作成の昭和五七年四月一二日付、同月一三日付各実況見分調書及び裁判所の検証調書等関係証拠によれば、死体発見現場の状況は次のとおりである。

被害者の死体が発見された現場は、大阪府和泉市北西部の丘陵地帯、和泉市道伯太―山荘線沿いにある大阪市立青少年野外活動センター建設予定地の一角で、下草に熊笹などが密生する松林の中、道路沿いの電柱(ゴルフ一四)からけもの道様の踏みつけ道を経て右電柱から東北東へ約一三・六メートル入った窪地状のところである。死体の位置から更に東北およそ三〇メートルのところに北西から南東に延びるため池(山池)があり、その岸近く及び死体位置から見て北西方向になる伯太―山荘線に通ずる部分等に前同様の踏みつけ道がある。死体胸部付近の下になっていた熊笹の葉には多量の血液が付着しており、また死体から北へ二三・五メートル、北北東へ二五メートル、東へ四〇メートルのいずれも山池沿いの踏みつけ道周辺の熊笹の葉等に少量ながら血痕陽性反応(ルミノール検査、ヘモグリン検査)が認められた。

なお、死体発見現場及びその付近の位置関係等は別紙見取図1、2、3のとおりである。

(二) 被害者の死体の状況

第四回公判調書中の証人丙丘五郎の供述部分、第一六回及び第一七回各公判調書中の証人吉村昌雄の供述部分、司法警察員作成の昭和五七年四月一二日付実況見分調書及び医師吉村昌雄作成の鑑定書によれば、

被害者の死体は、足に靴と靴下をつけただけの全裸、うつ伏せ、左腕は足の方向へほぼまっすぐに下げ、右腕はほぼ肩の高さで肘を曲げて前腕を上方(頭の方)に向け、足は右足を外に開いて両足を伸ばした姿勢で発見され、手には左に熊笹の葉一枚と松葉二本、右に熊笹の葉二枚を握りしめていた。また死体の体側に沿って折れた松の木が置かれ、その枝の一本が死体の肩口から背部に乗せられており、この松の木の折れ口は、死体頭部から一・七三メートル離れた地点の松の立木の折れ口と一致し、乗せられ方が人為的で犯人が折って乗せたものとうかがわれる。

死体解剖結果によれば、被害者の血液型はA型、死体には、前額部に擦過傷一、右眼裂上下及び眼球結膜部に打撲傷一(右眼裂上下には約四×二センチメートル大の皮内、皮下出血があり、眼球結膜には軽度の出血を伴う)、前頸上部に刺創一、前胸部に刺創六、腹部に刺創五、背部に刺創五、左耳介後部から右側頸部にかけてと下腹部から右大腿部に至る部分(外陰部を含む)に軟部組織の欠損が認められ、死因は腹部刺創に基づく腹大動脈刺切破による後腹腔膜内大出血と認められる。右損傷中、刺創は、刃身の長さ七ないし八センチメートルまたはこれより長く、刃幅は刺入部まで最広二・四センチメートル、刃背の厚みがやや薄い(〇・一ないし〇・二センチメートル位)、先端鋭利な片刃の刃物によるもので、前頸上部の刺創以外はいずれも刃をほぼ真下にして被害者の体表に対してほぼ直角に、それぞれ後ろまたは前方向に刺入したものと認められる。前頸上部の刺創は、刃を約四五度斜め下にして後下方向に刺入している。顔面部の擦過傷及び打撲傷は、用器的特徴に乏しく、鈍体の擦過的及び打撲的作用によって発起したものと考えられ、生活反応顕著で明らかに生前に受傷したものと認められる。胸腹部及び背部の各刺創では、腹部刺創群に最も生活反応が強く、次いで胸部、背部の順になっており、この順序で加害されたものと認められる。耳介後部から頸部にかけての軟部組織欠損部には明らかな生活反応はなく、死後野犬等に傷つけられたものと考えられ、下腹部から大腿部にかけての軟部組織の欠損部は、腐敗性変化が著しく、しかも蛆による蚕蝕等があって、生前に成傷されたものか死後の損傷か判定できない。被害者の胃内には、米飯粒、キャベツ、肉片等を含む褐色混濁液汁約二五〇ミリリットルが残留していたことが認められる。解剖所見を通じて死後の経過期間は解剖時(昭和五七年四月五日)においておよそ半月と推定される。

3  死体発見現場及びその付近から発見された物とその鑑定結果

(一) 発見状況

第四回公判調書中の証人丙丘五郎、第六回公判調書中の証人戊川二郎、第七回公判調書中の証人戊山三郎、第七回及び第八回各公判調書中の証人戊谷四郎の各供述部分、司法警察員作成の昭和五七年四月一二日付、同月一五日付、同月一六日付及び同月一七日付各実況見分調書並びに押収してある白色メリヤス半袖シャツ、子供用トレーニングウェア、子供用丸首セーター、子供用黄色ジーンズ半ズボン、子供用白色パンツ、ちり紙を丸めたもの二個、軍手及び木製鞘等関係証拠によれば、昭和五七年四月五日死体発見と同時に、死体周辺から、いわゆる切出しナイフの鞘と思われる木製鞘一本、ガラス製ビー玉二六個、液状様のもの付着のちり紙を丸めたもの二個、軍手一枚(片方)などが発見され、また、同月六日、右現場近くの山池の岸辺、道路沿いの金網から約二メートル、山池の岸から七〇センチメートルのところで、密生する女竹に引っ掛かっている白色メリヤス半袖シャツ一枚が、翌七日、右のシャツ発見地点から南西へ約六メートル、山池の池底(水深七三センチメートル)から子供用黄色ジーンズ半ズボン一枚(左右のポケットにビー玉合計一七個)、そこから約一メートル南西の池底から子供用白色パンツ一枚、翌八日、右金網の南東一〇・四メートル、山池西側岸から約一メートルの水中から青色子供用トレーニングウェア上衣一枚とそれにくっついて緑色子供用セーター一枚が発見された。

(二) 現場周辺から発見された物についての鑑定結果など

(1) 液状様のもの付着のちり紙を丸めたもの二個

第一五回公判調書中の証人木村重雄の供述部分、同人作成の鑑定書及び押収してある前記ちり紙を丸めたもの二個等関係証拠によれば、右のちり紙にはいずれも内側部にやや粘稠性の液体が付着しており、この部分の検査結果は、口腔に由来する扁平上皮細胞を検出、気管支及び気管支粘膜上皮細胞に由来する杯細胞は不発見、PAS染色陰性、アミラーゼ検査陽性であり、これらから右ちり紙に付着している粘液はだ液であると認められ、その血液型はB分泌型である。

(2) 軍手

第一〇回及び第一一回公判調書中の証人面谷尚也の供述部分、同人作成の昭和五七年五月八日付鑑定書及び押収してある前記軍手等関係証拠によれば、肉眼検査では、軍手の全面に帯黄土灰色及び灰色の汚染斑痕が認められるのみで、血痕ないしこれに類するものは認められず、ルミノール反応及びリューコマラカイトグリーン試薬による血痕予備検査の結果、小指の付け根付近にやや弱い陽性反応を呈する部分が認められたが、その部分は微小で、抗人血色素血清沈降素検査、抗人蛋白血清沈降素検査には反応せず、結局右部分についても血痕付着の疑いが持たれるのみで、人血は勿論血痕付着の証明も得られなかった。

(3) 木製鞘

司法警察員作成の「現場遺留の木製鞘に対する科学検査について」と題する書面、押収してある前記木製鞘等関係証拠によれば、木製鞘には、黒いすす様のものの付着が認められたが、可視血痕等は観察されず、血痕予備検査にも陰性、指掌紋も検出されなかった。

(4) 被害者の着衣

第九回及び第一〇回公判調書中の証人勝連紘一郎、第一〇回及び第一一回公判調書中の証人面谷尚也、第一一回公判調書中の証人若槻龍児の各供述部分、技術吏員勝連紘一郎、同面谷尚也(二通)及び若槻龍児各作成の鑑定書並びに押収してある前記関係証拠物等関係証拠によれば、被害者の靴及び靴下にはいずれも血痕付着は認められず、白色メリヤス半袖シャツはほぼ全面にわたり血痕予備検査に陽性反応を示し、その一部にはやや濃い血痕様斑が認められ、この部分を検査の結果A型の人血証明が得られた。また、このシャツは前面ほぼ中央部の首先部からすそ部までが縦方向に直線的(一部不整形)に切り開かれており、切断部辺縁の形状により上部から下部方向へ刃物によりやや不整形に切り下げられた損傷と考察され、更に右切り開かれた部位の両側面に約一一個の損傷痕が認められ、右損傷痕はいずれもその辺縁の形状から片刃の鋭利な刃物類により形成されたものと考えられる。

また子供用黄色ジーンズ半ズボンは、血痕予備検査により、その左側部分に血痕付着の疑いがわずかに持たれたが、人血証明検査には反応せずその証明は得られなかった。また、同ズボンの右腰部に長さが縦約二・一センチメートル、刃物で作成されたと思われる創縁が精鋭な損傷痕が認められる。

子供用白色パンツ、子供用トレーニングウェア及び子供用丸首セーターは、いずれも血痕予備検査で陽性反応を示し、パンツ及びセーターについてはA型の人血証明が得られたが、トレーニングウェアについては人血証明を得るにいたらず、また、セーターの前面にはそれほど峰の厚くない片刃の刃物によると推定される損傷痕(七個)及び首先部からすそ部まで切り開かれた部位が、右上腕には刃物によるかどうか明らかにし難い損傷部位が認められ、パンツ左右両側及び後面下部には数個の切破部位ないし損傷部位が認められた。更に、トレーニングウェアの左腹部、左襟部及び左腕部、セーターの左腕部、パンツ後面には焼損が認められ、トレーニングウェアとセーターの各左腕部の焼損部は相互に融解接合した状態であった。

4  被害状況からうかがわれる犯人像など

被害者の死体及びこれが発見された現場の状況等から見て、被害者は昭和五七年三月一九日もしくはその後程ないころ前記死体発見現場において何者かに殺害されたものと認められ、被害者の年齢、西成区と伯太町との距離等から考えて被害者が一人で伯太町まで行ったのではなく、何者か年長者に同行したものと考えられ、被害者の着衣の投棄状況などから見て、犯人は被害者の身元が判明することを恐れており、このことから、被害者の身元の判明が犯人の割り出しに結び付き易い者、即ち被害者とある程度親しい関係にある者の犯行である可能性が高いものと考えられる。

二  被告人の経歴、動静及び被告人の逮捕など

1  被告人の経歴、動静など

第四三回及び第四四回各公判調書中の被告人の供述部分、被告人の司法警察員に対する昭和五七年三月二〇日付及び同年四月一〇日付各供述調書、第二回公判調書中の証人戊丘五郎及び春野一子の、第三回公判調書中の証人春川二子の、第一八回公判調書中の証人春山三子の、第一九回公判調書中の証人春谷四子の各供述部分、証人春谷四子に対する当裁判所の尋問調書、第三八回及び第三九回公判調書中の証人植松静夫の、第四一回公判調書中の証人冬野一郎の各供述部分、医師牧原寛之作成の鑑定書、春丘五郎の司法警察員に対する供述調書、検察官作成の捜査報告書、押収してある領収書二枚及び植松静夫作成の捜査メモ等関係証拠によれば、以下の事実が認められる。

(一) 被告人の身上、経歴

被告人は、大正一三年一月六日神奈川県内で出生し、川崎市内の尋常小学校へ進んだが、八歳のころから首を振ったりせき払いをしたりする運動チック症が出現し始め、そのことも原因して小学校を中退し、新聞配達や靴磨きなどの職を転々としていたが、一六歳のころから窃盗罪等を重ねて検挙、服役を繰り返すようになり、昭和四一年ころには近所の子供を無断で川崎から大阪へ連行して誘拐罪で逮捕され、同四五年、同五五年にも幼児を対象とした誘拐罪を犯して服役し、また昭和四六年には喧嘩の上で人を殺害して服役した。昭和四二年に来阪して西成区内に居住するようになり、同五四年末か同五五年初めころ、本件被害者Aの母B子と知り合い、同女との付き合いの中で本件被害者Aも知るようになった。昭和五五年三月知人の紹介で冬山二子(当時六五歳)と結婚したが、同女との仲がうまくいかず、同年八月には一人で東京へ出たものの、前記のとおり同年一〇月幼児を略取、誘拐して逮捕され、有罪判決を受けて新潟刑務所に服役した。

(二) 本件犯行日とされる昭和五七年三月一九日前日までの被告人の動静

被告人は、昭和五六年一一月一二日新潟刑務所を出所し、服役中に死亡した妻冬山二子が死亡前に住んでいた大阪府和泉市伯太町《番地省略》甲丘荘の管理人春谷四子の招きで同荘に居住するようになり、当初西成区内へ通って同区内で日雇作業や靴磨きなどの仕事をしていた。そのころから再び被害者と顔を合わせ、子供好きの性格から四角公園などで一緒に遊んでやったりするようになり、また甲丘荘の近所の子供らを連れて和泉市伯太町三丁目三の二の一五一大阪市立信太山青少年野外活動センターへ遊びに行ったりすることもあった。昭和五七年一月一七日右春谷の紹介で和泉市伯太町《番地省略》株式会社甲山警備保障(以下「甲山警備」という)に勤務し、ガードマンとして働くようになったが、同年二月一五日冬山二子の残した遺産の分配方法をめぐって春谷と折り合いが悪くなり、同月二七日甲山荘を出て大阪市西成区萩之茶屋にある乙野荘へ引っ越し、春谷が甲山警備に対して被告人の保証人を止めてしまったため、同年三月二日には同警備を解雇されえ。その後しばらくは冬山二子の遺産で生活していたが、同月七日夜四角公園で三、四人の男と喧嘩をし、胸部を蹴られて左第六肋骨を骨折し、西成区内の大和中央病院に入院し、同月一八日同病院を退院した。

(三) 昭和五七年三月一九日の被告人の行動

被告人は、三月一九日昼ころ四角公園に行き、そこで遊んでいた被害者ほか二名の子供に近くの商店でビー玉を買い与えて一緒に遊んだ後、被害者一人を連れて前記甲野食堂へ行って昼食を取り、午後零時一〇分か一五分ころ二人で同食堂を出た。同食堂で被害者は、米飯とキャベツ、ニンジン、キュウリ、プレスハムの入ったサラダを食べた。その後の被害者の行方は前記のとおり不明であり、甲野食堂を出た後も被告人が被害者と行動をともにしていたか否かがまさに本件の争点であるところ、被告人は同日午後二時から四時ころまでの間に、一人で甲山警備に現れ、残っていた残業手当一四〇〇円を受領し、一〇分位で同警備を立ち去り、夕刻西成区内に立ち戻った。

(四) 昭和五七年三月二〇日以降の被告人の動静など

被告人は、三月二〇日二度にわたり西成警察署に呼ばれ、被害者の行方について事情聴取を受けたが、被害者とは三月一九日昼一緒に食事をした後に別れ、その後自分は天王寺公園で遊んでいた旨供述した。同月二一日午前再び甲山警備を訪れ、同警備のガードマンの制服等を返納し、それと引き換えに電話代の立替分九六〇円を受領した。この際、一時荷物を置いたまま甲丘荘の春谷方へ行くと言って同警備を出たが、一〇分ないし一五分位して、行くのは止めたと言って同警備に立ち戻った。同月二二日午前中西成警察署に行き公廨で「俺は疑われている」とわめいたりした。

被告人は、同月二五日家財道具のほとんどを処分して乙野荘を引き払い、衣類などわずかな荷物を持ち、知人に紹介された若い女性一人を連れて上京した。同月二七日同女とともに横浜市内の実兄冬野一郎方を訪れ、同女と結婚するといって実兄から金を借りたが、間もなく同女に逃げられ、同日東京上野駅構内で警察官から職務質問を受け、同駅地下派出所に同行、同年二九日浅草警察署を訪ねて逃げられた女の行方の捜索を依頼したが、その際いずれも警察官には本名を名乗っていた。同年四月始めころ上野で知り合った別の女性を連れて再び右実兄方を訪れて同人から金を借り、同月三日神奈川県平塚市内にある乙山工務店に同女とともに勤務するようになり、右実兄方に手紙を送って自己の現住所を知らせるとともに、現金の送金を依頼した。

なお被告人は当公判廷においても盛んにせき払いをしてはたんつばをちり紙にとっており、この行動は被告人の性癖化しているものと認められる。

2  被告人の逮捕並びにその着衣類の押収状況及び鑑定結果

第一二回及び第一三回各公判調書中の証人泉政徳の、第一三回公判調書中の証人夏野一郎の、第一四回公判調書中の証人浦口光央の、第一五回公判調書中の証人木村重雄の、第二七回ないし三〇回各公判調書中の証人後藤正則の、第三一回ないし第三三回各公判調書中の証人福田登の各供述部分、技術吏員泉政徳及び同木村重雄作成の各鑑定書、押収してあるちり紙(たん様のものが付着したもの)若干等関係証拠によれば以下の事実が認められる。

(一) 被告人の逮捕と着衣等の押収

被害者の死体発見以来誘拐殺人事件として捜査を続けていた大阪府警察本部は、現場近くの山池から被害者の着衣を発見し、被害者の司法解剖の結果から同人の死因、死体の損傷状況、損傷状況から推認される成傷器の形状等を確認するとともに、被告人が二月下旬まで甲丘荘に住んでいて現場付近に土地鑑がある、三月一九日午後甲山警備を訪れている、大和中央病院に入院した際刃物を持っていた、被告人には幼児を誘拐した同種の前科が多数ある、三月二〇日西成署で事情聴取を受けたときは三月一九日午後は天王寺にいたと虚偽の事実を述べており、しかも三月二五日以降西成から姿を消した、などの情報をつかみ、更にそのころ被告人が子供を連れて現場近くの新聞店と牛乳店に立ち寄ったとの目撃証言とか三月一九日ころ甲丘荘に住む子供(丁丘五郎)が被告人から一〇〇円もらったと話していたとの情報を得て、被告人に対する嫌疑を深め、被告人の実兄を介して被告人の所在をつかみ、同月九日昼ころ乙山工務店の作業現場に赴き、被告人を平塚警察署に任意同行して事情を聴取した上、同日午後六時一〇分本件誘拐、殺人罪の容疑で通常逮捕(逮捕状の緊急執行)するとともに、同月一〇日、被告人が三月一九日当時着用していたとみられる防寒上衣、黒色長ズボン、黒色短靴及び灰色トックリセーター並びに被告人の毛髪及びだ液を、更に同月二〇日ちり紙に取った被告人のたん様のもの若干をそれぞれ被告人に任意提出させて押収した。

(二) 被告人から押収した物についての鑑定結果

(1) 被告人の着衣など

被告人の毛髪及びだ液紙からは血液型B分泌型の判定を得た。また、防寒上衣については、その右そで先端部四箇所(いずれも僅かなもの)と裏面右そで付け根二箇所(小豆大)に人血付着の証明が得られ、右そで先端部四箇所の血液型はいずれもA型であり、裏面右そで付け根付近二箇所の血液型はB型と判明し、短靴については、その右足内側部に二箇所及び靴底部一箇所に血液型不明ながら人血付着の証明が得られた。防寒上衣前胸部右ポケット付近及び前面下部の裏面並びにズボン右膝内側部にも血痕付着の疑いのある部分が認められたが、人血証明には至らず、セーターについては血痕付着の証明は得られなかった。

(2) ちり紙に採取した被告人のたん様のもの

被告人から採取したちり紙付着のたん様のものについての鑑定結果は、前記死体発見現場遺留のちり紙片二個の鑑定結果と同一であり、血液型はB分泌型である。

第三自白以外の証拠によって認められる事実についての検討

被告人の自白以外の証拠によって認められる基本的な事実関係は右認定のとおりであり、これらの事実は、先にも指摘したとおりおおむね争いがないところ、検察官は右事実を踏まえ、これに若干の間接事実を指摘して、本件は被告人の自白を待つまでもなく、客観的証拠によって被告人が犯人であることはすでに明らかであると主張する。すなわち、検察官の主張するところは、自白以外の証拠により、被告人は昭和五七年三月一九日被害者が行方不明となった日最後に被害者と接触した人物であり、かつ同日本件死体発見現場近くに姿を現していること、被告人と被害者は顔見知りで一緒に遊んだりする親しい関係にあったこと、被告人は被害者が殺害されたとみられる本件死体発見現場につき知情性を有していること、同現場から発見されただ液付着のちり紙、切出しナイフの木製鞘、軍手の何れにしても被告人と結び付く点があること、被告人の着衣から被害者と同型A型の人血痕が検出されていること、本件犯行が行われたと考えられる日ころ、被告人が被害者と思われる児童を連れて現場近くにいたことなどの事実が認められ、これらの事実を総合すれば被告人が本件の犯人であることは明白である、と言うのである。

そこで検察官の右主張について検討する。

一  被告人は、昭和五六年末ころから被害者と一緒に遊んでやるなど親しくしており、被害者が行方不明になった当日も食堂に誘って食事をさせているのであって、被告人と被害者とは被告人が誘えば被害者が伯太町までついてきてもおかしくない間柄であったこと、また被告人は昭和五七年二月二七日まで和泉市伯太町に住んでいて、その当時、本件死体発見現場の近くにある青少年野外活動センターにも近所の子供を連れて行くなど現場の地理に明るかったこと、また三月一九日昼すぎ被告人と甲野食堂を出たあと西成で被害者の姿を見たものは確認されておらず、同日午後被告人が死体発見現場から約五〇〇メートル、阪和線信太山駅と死体発見現場の中間にある甲山警備に姿を現していること、犯行現場には被告人の血液型と同じB分泌型のだ液が付着したちり紙を丸めたものが遺留されており、被告人にもしばしばせき払いをしてだ液等をちり紙に吐き出すといった特徴的な性癖が認められること、被告人が三月一九日に着用していたという防寒上衣の右そで先端(四箇所)には被害者の血液型と同じA型の血痕が付着し、被告人の短靴にはその内側(二箇所)と靴底(一箇所)という通常血など付きにくいような場所に型不明ながら人血が付着していたことは、先に認定したとおりであり、また当時被告人が軍手を常用していたことは被告人自身当公判廷で認めているところであって、確かにこれらの事実は、被告人が犯人ではないかとの疑いを抱かせるに足るものである。

二  しかしながら、右に述べた事実もこれを子細に検討してみると、いずれも被告人が犯人であることと矛盾せず、相当の嫌疑を抱かせるにとどまり、未だ犯行と被告人とを結び付けるに足るものとはいい難い。即ち

1  本件死体発見現場近くには大阪市立信太山青少年野外活動センター及びそのキャンプ場があり、付近住民以外にも大阪市などから訪れる者が多いと考えられ、当然のことながら、被告人が西成区と伯太町の死体発見現場付近との双方の地理に明るいからといって、これを過大評価して性急に犯行と被告人を結び付けるのは危険である。現に植松静夫作成の捜査メモによると、同メモには当時被害者が通学していた今宮小学校のPTAが事件の前年(昭和五六年)の夏に青少年センター(右信太山青少年野外活動センターを指すものと思われる)にキャンプに来た旨の記載があり、被害者とともに西成から伯太町へ行く可能性のある者が他にもいることがうかがわれるのであって、このことはたやすく看過できない。

2  また三月一九日甲山警備には被告人が一人で現れ、その際被害者は目撃されていないのであって、被告人の自白調書の記載のように、被害者を少し離れた所で待たせていたため甲山警備の関係者に目撃されなかったということも勿論考えられるが、子供好きの被告人が遠路同道した被害者を何故そんな所で待たせたのか。甲山警備に来たのが被告人一人であったと言うことは、当時被告人が被害者を同道していなかった可能性を示唆するものと見ることも可能である。

3  更に、死体発見現場に被告人と同じ血液型のだ液等の付着したちり紙が遺留されていたという点についても、血液型が一致すると言っても共にB分泌型と言うだけで、その同一性の確度は高くなく、また被告人は当公判廷においても頻繁にせき払いをしてはだ液等をちり紙に吐き出すというかなり特徴的な行動を示しているが、特徴的とは言っても、せき払いをしてはちり紙にだ液等を吐く行動自体は、時に愛煙家などに見られる行動で検察官が主張するほどさほど特異な行動とは考えられないのであって、これまたあまり重要視することはできない。

4  現場に遺留されていた軍手については、当時被告人も軍手を常用していたという以上にこれを被告人と結びつけるものは何もなく、労務作業に従事する者など軍手を常用する者は何ら珍らしいことではないから、現場に格別特徴のない軍手が遺留されていたからといって、そこに被告人との結びつきを見出すことなどとうていできない。

5  被告人の防寒上衣の右そでに被害者と同一の血液型の血が付着し、被告人の短靴の底等に人血が付着していたという点については、確かに僅かとはいえ、他人の血液が自己の着衣に付いたり、まして靴の底に他人の血が付くなどという機会はそうあるものではなく、特段の事情がなければ、このことは被告人に対する嫌疑を抱かせるに足る重要な要素であることは否定すべくもない(なお、靴底の血は、そこに被告人の血が付く機会があったことをうかがわせるものはなく、他人の血と推認される)。しかしながら、被告人の当公判廷における供述及び植松静夫作成の前記捜査メモによると、被告人は昭和五七年四月一日ころの深夜、東京上野公園で喧嘩をし、その際相手の男性に、頭部を一升びんで殴りつけて加療一週間を要する頭部裂傷を負わせていること、この相手の男性の血液型もA型であったことが認められ、被告人の着衣等に付着している血は、その際に付着した可能性も否定できない。なお、この点について被告人は当公判廷において、右の喧嘩の際には着衣に血は付かなかった、と述べているが、子細に見分したわけでもなく、付着の程度、防寒衣の色調等に鑑み、右の可能性を否定するに足るものではない。

三  更に検察官が指摘する点のうち、現場に遺留されていた切出しナイフの木製鞘と被告人との結び付き及び被告人が被害者らしい児童と共に伯太町に来たのを目撃した者があるとの点について検討する。

1  切出しナイフの木製鞘について

検察官は、昭和五七年三月一九日当時被告人が、現場に遺留されていた木製鞘に適合する切出しナイフを所持していたことは明らかであると主張するところ、第四四回公判調書中の被告人の供述部分及び第二一回公判調書中の証人夏川二子の供述部分等の関係証拠によれば、被告人は昭和五七年三月二日、西成区鶴見橋二丁目一一番地一三号夏川計量店で、現場に遺留されていた木製鞘と同種同型の鞘がついている切出しナイフを購入したことが明らかであり、しかも、この切出しナイフは、先に認定した被害者の死体の解剖所見からみて、その刺創の成傷器として推定されるものと符合する。そして被告人が大和中央病院に入院した際右と同様のナイフを被告人から預かり、同月一八日退院するときに返還した、との同病院の警備員南洋の当公判廷における証言は、被告人から入院時に預かった刃物は、切出しナイフのようなありふれたものではなく、三〇センチメートル位あるドスのようなものであった、との第三八回公判調書中の同病院事務係秋野一郎の供述部分と対比してたやすく信じ難い面もあるが、一方、切出しナイフは購入した翌日に公園で焼却したとの当公判廷における被告人の弁解も、その弁解内容がいささか不自然である上、捜査段階での弁解とも異なり、これまた信用し難いのであって、結局被告人が三月一九日当時も右ナイフを所持していたか否かについては、確証を得るには至らないが所持していた可能性は充分あると考えるべきである。ただ、右の切出しナイフは格別特徴のないごくありふれたものであって、当時被告人がそのようなナイフを所持していた蓋然性があり、その鞘が現場に遺留されていた木製鞘と同種同型であるからといって、被告人と犯行とを結び付ける決め手となり得るものではなく、その結びつきを疑わせる一間接事実たるにとどまる。

2  被告人が被害者と思われる児童を連れて伯太町に来たのを目撃した者があるとの点について

検察官は、証人夏山三子に対する当裁判所の尋問調書、同人の検察官に対する供述調書、第二五回公判調書中の証人夏谷四子の供述部分及び同人の検察官に対する供述調書によれば、死体発見現場からさほど遠くない、阪和線信太山駅と甲山警備との中間、和泉市伯太町《番地省略》で新聞販売店を営んでいた夏山三子及び同店の隣で牛乳販売店を営む夏谷四子の両名が、昭和五七年三月一九日ころ被告人が被害者を連れて両店を訪れたのを目撃している事実を認めることが出来ると主張し、若しこの事実が認められればそれは本件の帰趨を左右するに足る重大な事実であると考えられるので、以下右両証言供述及び関連の証拠について慎重に検討する。

(一) 証人夏山三子の証言は、「被告人はよく新聞を買いに来ていて見覚えがある、一度子供を連れているのを見た、夏谷牛乳販売店で二人で牛乳か何かを飲んでいた、子供は小学校一・二年生位で丸坊主で髪が伸びていた、顔は覚えていない、警察に届けた四月七日の時点で一か月も二か月もはたっていなかった。」と言うのであり、同人の検察官に対する供述は、「被告人はよく新聞を買いに来ていたので知っている、警察に話をした四月七日の時点で二・三週間位来ていないという記憶であった、一度だけ子供を連れて新聞を買いに来た、学校のある平日、三月二一・二二日の連休前、三月二〇日前ころとは言えるがそれ以上は思い出せない、寒い日だった、被告人が新聞を買いに来たのはそれが最後だったように思うが、断言は出来ない、時間は午後二時より前、午前か午後かは記憶がない、子供は小学校一・二年生位、丸坊主で髪が伸びていた、隣の夏谷牛乳販売店に行き、二人で牛乳を一本ずつ飲んでいた」と言うのである。

これに対して被告人は、夏山の新聞販売店へ子供を連れていったのは、まだ甲丘荘に住んでいた昭和五七年二月ころ一度だけである、連れて行ったのは甲丘荘の近所のDと言う子供である、と弁解しているところ、夏山は被告人が連れていたという子供の顔を記憶しておらず、その時期が「三月二〇日前ころ」と言うのも極めて漠然とした印象にすぎず、結び付ける具体的な根拠のあるものではないのであって、右夏山三子の証言、供述は、これをもって被告人が子供を連れて夏山方へ新聞を買いに来たのは、被告人が伯太町に住んでいた二月中のことではなく、三月一九日ころとまでは言えないまでも被告人が西成に引越した後であり、連れていたのは被害者であると断ずるに足るものではない。

(二) 証人夏谷四子の証言は、「四月八日ころ夏山から「あんたのとこで牛乳飲んだ子が殺された」と聞いた、小学校低学年位、髪が伸びていた、学校のある日で寒い時期なのに半ズボンをはいていた、牛乳を飲んだ、寒いのに好きやなあと思った」と言うのであり、同人の検察官に対する供述は、「五・六〇歳位の男が子供連れで来た、三月二一日の前後ころの奇数日、子供は坊主頭で髪は伸びていた、牛乳を一本ずつ飲んだ、子供はごくごくとのどを鳴らして飲んでいた、子供の顔も連れていた男の顔も覚えていない、被告人と面通しさせられたがやはりその時の男かどうか分からない」と言うのである。

この夏谷の証言、供述についても被告人は、夏谷牛乳販売店に子供を連れていったのも同年二月中ごろで、連れていったのは甲丘荘の隣人の子供丁丘五郎であると弁解しているところ、第二三回公判調書中の証人丁丘六子の供述部分によれば丁丘五郎は昭和五三年一二月二一日生で当時三歳であるから、夏谷がこれを小学校低学年と見誤ることは考えられず、夏谷の見たのは丁丘五郎ではないと言うべきであるが、夏谷は子供の顔も連れていた男の顔も記憶しておらず、時期の点も、「新東洋に行った三月二一日」の前後ころの奇数日、と一見具体的根拠のある記憶のような形を取っているが、奇数日というのは早朝の牛乳配達のない日だったというにすぎず、もともと同人はこの二人連れを特別の関心をもって見ていたわけではなく、日常的な商売の一こまとして、夏山に言われて初めて思い起こした記憶にすぎないのであって、これまたこれをもって三月二一日の前後ころ被告人と被害者が夏谷方で牛乳を飲んだと認めるに足る証拠と言うことは出来ない。

(三) なお第二三回公判調書中の証人丁丘六子の供述部分によれば、「甲丘荘前の広場で遊んでいた丁丘五郎が一〇〇円玉を握っているので尋ねたところ、「隣のおっちゃんにもらった」と言っていたことが一度あり、それは被告人が甲丘荘から引越した後の金曜日である、丁丘五郎の言う「隣のおっちゃん」と言うのは被告人のことである」と言うのであるが、右供述中その時期に関する供述ははなはだ曖昧であり、一応右のように供述しながら、他方昭和五七年の正月の前か後かと問われると、その都度前と答えたり後と答えたりしているのであって、時期についての同証言の信用性には疑問が残ると言わざるを得ないうえ、「隣のおっちゃん」から一〇〇円貰った、と言うのは当時三歳の幼児からの伝聞であって、それ自体信用性の低いものである上、「隣のおっちゃん」が被告人のことを指すというのも同証人の推測にすぎず、同証人が見た一〇〇円玉が被告人の与えたものであると認定する証拠としては甚だ心もとないものと言わざるを得ない。

(四) 以上夏山、夏谷、及び丁丘の各供述が何れもそれ自体としては十分な信用性を持ち得ないものであることは右に見たとおりである。しかし個別には十分な信用性を持たないにしても、三人が同じ方向を指し示す事実を供述していることは看過出来ず、これらを総合すれば検察官指摘の事実を認定できるのではないかとの懸念を否定出来ないので更に検討するに、第一七回公判調書中の証人吉村昌雄の供述部分によると、被害者の死体を解剖した吉村医師は、「解剖所見から見て被害者は殺される直前に多量の乳製品を取ったとは考えられない、牛乳をコップ一杯も飲んでいれば胃の内容物の色がもう少し白っぽくなる」と述べており、前記夏山、夏谷が言う被告人が連れてきて牛乳を飲んだ子供が被害者であったとすると、解剖時の被害者の胃の内容物の状態と矛盾することになる。確かに、被害者の死体は現場に放置され、解剖時既に死後約二週間を経過していたから、胃の内容物の腐敗も進行していたと思われるが、同医師は、自ら執刀して被害者を解剖した法医学の専門家であり、かつ証言に当たっては、死亡までの食後経過時間の推定について言及することを避けるなど慎重な姿勢を示しながら、その専門知識、解剖所見を基に右のとおり述べているのであって、十分尊重に値するものと考えられる。

この点に関して検察官は、子供が飲んだ牛乳の量が特定されていないと主張するが、前記夏山及び夏谷の各供述によれば、その男と子供は瓶入りの牛乳を一本ずつ飲んでいた、と言うのであり、夏谷の供述に「子供はごくごくとのどを鳴らして飲んでいた、寒いのに好きやなあと思った」とあることからも、夏山及び夏谷の見た子供は、瓶入り二〇〇ccもしくは一八〇cc程度の牛乳を一本飲んだものと見るべきであり、残したかも知れないとするのは、証拠に基づかない憶測と言うほかない。

加えて前記植松静夫作成の捜査メモによれば、被害者の母親の言として、被害者は牛乳はきらいである、とされていることも、夏山らの見た子供と被害者の同一性について多少なりとも疑問を抱かせるものであることは否定できない。

(五) 以上見てきたところから、前記夏山、夏谷及び丁丘の各供述からは、個々的には勿論、これを総合しても、三月一九日ころ被告人が被害者を連れて伯太町に来ていたと認定することは出来ないものと言うべきである。

四  以上見てきたとおり関係証拠を子細に検討すれば、被告人の自白調書以外の客観的証拠、状況証拠によって認められるところからは、被告人と犯行とを結び付けるについて決め手となり得るものは見出せず、これらを総合的に見ても未だ相当の嫌疑を抱かせるにとどまり、検察官が主張するように、本件各公訴事実について被告人を有罪と断定することは出来ない。

なお被告人は、三月一九日の行動について、当公判廷において、甲野食堂の前で被害者と別れた後、一人で天王寺公園に行き、動物園前で、よくその付近にいる腰の曲がった八〇過ぎの老女と出会い、一緒に芝居小屋に入った、一〇分か二〇分でそこを一人で出て甲山警備に行った、と述べ、弁護人もこれを被告人のアリバイと主張し、被告人の右供述を覆すに足る証拠はないと言う。なるほど、「被告人及び被害者の何れについても知らない、被告人に芝居小屋に連れて行って貰ったことはない」との夏丘五子(明治四三年五月二〇日生)の検察官に対する供述調書(昭和六一年一〇月七日付)は、四年以上も前のことを被告人及び被害者の写真を示して尋ねた結果であり、同女の年齢や西成の簡易宿泊所を転々としている同女の生活状況などから見て、たやすく信用し難いのみならず、同女は検察官が被告人の右供述に基づいてそれらしき人物として割り出したにすぎず、同女が被告人の言う「老女」かどうかも確認されていない。しかし被告人の右供述も厳密な意味では公訴事実に対するアリバイとはなり得ず、昼食後も被告人が被害者を連れ歩いていたとの検察官の主張に対する反証にすぎないところ、被告人の右供述を裏付けるものもない。

第四被告人の自白調書の任意性、信用性

そこで次に捜査段階における被告人の検察官及び司法警察員に対する自白調書の任意性、信用性について検討する。

一  自白調書の任意性について

弁護人は、被告人の司法警察員に対する自白調書は、取調警察官の強制、拷問、誘導によるものであり、検察官に対するそれは、警察官の拷問等の影響下の供述を録取したものであって、いずれも任意性がない、と言うので先ずこの点から検討を進める。

被告人の当公判廷における供述、第一回、第二六回、第四四回及び第四五回各公判調書中の被告人の供述部分、検察官(五通)及び司法警察員(一六通)に対する各供述調書(ただしここでは記載内容の真否ではなく、調書の存在とその記載内容自体を明らかにするための証拠として)、第二七回ないし第三〇回、第三八回及び第三九回各公判調書中の証人後藤正則、第三一回ないし第三三回各公判調書中の証人福田登、第三四回及び第三五回各公判調書中の証人浦口光央、第三七回公判調書中の証人田川久康の各供述部分、司法警察員後藤正則作成の昭和五七年五月一〇日付捜査報告書添付の被告人作成の手紙等関係証拠によれば、次の事実が認められる。

1  被告人の供述経過

被告人は、第一回公判期日以来一貫して犯行を否認しているが、捜査段階から起訴後第一回公判期日前までは否認と自白を繰り返しており、その経過は次のとおりである。

(一) 三月二〇日(昭和五七年、以下同)西成警察署で事情聴取を受けた際、一九日は昼食の後食堂の前で被害者と別れ、その後は一人で天王寺公園にいた、と述べていたことは先に認定したとおりであるところ、被告人は四月九日神奈川県平塚市の乙山工務店の作業現場から同県警察平塚警察署に任意同行、同署において、大阪府警察から出張した警察官に約五時間にわたって事情聴取され、同日午後六時一〇分同署において逮捕、同日午後一一時五〇分大阪府警察和泉警察署に引致、同署に留置、翌一〇日から被疑者として本格的に取調べを受け、一一日大阪地方検察庁に送致、検察官による弁解録取、続いて大阪簡易裁判所裁判官による勾留質問を経て同日和泉警察署留置場に勾留されたのであるが、逮捕前の平塚署での事情聴取、逮捕時の弁解録取、一〇日の取調べ、一一日の検察官による弁解録取、裁判官の勾留質問の何れにおいても終始犯行を否認した。ただ一〇日の取調べの前半では、三月一九日の行動について、その日甲山警備には行っていない、と述べていたのを、一〇日の取調べの後半からは、一九日甲山警備には行ったが、行ったのは午前中である、と供述を変えた。

なお一〇日の取調べは、大阪府警察本部刑事部捜査一課巡査部長後藤正則が担当し、同課巡査部長福田登及び同課巡査浦口光央の両名が補助者として立会した。

(二) 被告人は、四月一二日後藤巡査部長の取調べに対し、初めて本件犯行を自白し、翌一三日もこれを維持し、一二日付及び一三日付で自白調書が作成されたが、同月一四日和泉署に来署した検察官の取調べに対して犯行を否認した。この否認のあと後藤巡査部長に代わって同捜査一課警部補植松静夫が被告人を取調べたところ、同月一五日再び自白し、同日付で調書が作成された。翌一六日から再び後藤巡査部長が被告人の取調べに当たり、同月一七日付及び同月一八日付の自白調書が作成されているが、その間も同月一六日ころまでは否認自白を繰り返していたところ、同月一九日大阪地方検察庁における検察官の取調べに対し、再び犯行を全面的に否認した。なお右後藤巡査部長、植松警部補の取調べに際しては、福田巡査部長及び浦口巡査の両名が補助者として立会した。

(三) 一九日の検察官に対する否認の後再び植松警部補が被告人の取調べに当たったところ(浦口巡査立会)、被告人は翌二〇日再び犯行を自白し、同警部補により同日付及び二一日付自白調書が作成され、また、今後は検察官の面前でも自白する旨の検察官あての上申書を作成提出するに至り、同二一日和泉署における検察官の取調べにおいても犯行を認め、以後警察での取調官は再び後藤巡査部長に代わったが自白を翻すことなく、立会補助者も一人にして取調べが進められ、同月二二日付、二三日付、二四日付、二五日付、二六日付及び二八日付司法警察員に対する各供述調書並びに同月二一日付、二六日付、二七日付及び二八日付検察官に対する各供述調書が作成された。

また、被告人は同月二二日には接見に来た弁護人にも犯行を認める旨の供述をし、同月三〇日本件誘拐、殺人罪で起訴、同年五月一日大阪拘置所に移監された。移監後被告人は本件に対する反省及び被害者の両親に対する謝罪の気持を書き綴った後藤巡査部長あての手紙を書いている(同月六日付消印)。

2  取調べ状況

被告人は、自白調書が作成されるに至った取調べ状況等について、四月二〇日以前の後藤巡査部長に対する自白調書は、同巡査部長並びにこれを補助していた浦口巡査及び福田巡査部長から、首を締めながらぎゅうぎゅうと前に押さえ付けられたり、手拳であばら付近を何回を殴られ、手を後ろにねじ上げ、いすを蹴り倒して倒れた被告人の脇腹を膝で押さえ付けるなどの暴行を加えられて強制されたものであり、同じく植松警部補に対する自白調書は、同警部補の取調べに際して直接暴力を振るわれるようなことこそなかったが、取調べには浦口巡査も立ち会っており、同様の暴力を振るわれることを恐れて虚偽の自白をしたものであり、同月二一日以後は、このままでは殺されてしまう、早く拘置所に移監してもらおうと考え、やけくそ気分で警察官にも検察官にも自白し、警察官の指示どおり検察官あての上申書を書き、警察官を安心させるために、接見に来た弁護人にも事実を認めると述べ、後藤巡査部長あての手紙も書いた、と言うのである。

しかし、前掲関係証拠によれば、被告人は、平塚署から和泉署までの押送途中及び和泉署において、押し掛けてきた報道陣に対し、つばを吐きかけたり、足蹴にしようとして暴れるなど、逮捕当初から非常に粗暴な態度を示しており、その為被告人が落ち着くまでは取調べも補助者を二名付して行われたこと、後藤巡査部長の取調べ中、突然「やっちゃいねえ」と言って立ち上がり、同巡査部長が読み上げた被疑事実を記載した用紙を取り上げ、これをまるめて引き破ろうとしたり、被告人の供述の虚偽や取調官の持っている情報との矛盾を指摘して追及されたりする度に、立ち上がって取調官につかみかかろうとしたり、あるいは、壁に自分の頭をぶつける、窓ガラスを割って自らの手首を切るなどの自傷行為に出ようとしたりしたため、その都度同巡査部長や補助者がこれを制圧するため被告人ともみあいになり、その際被告人の力も強く、いきおい制止行為も相当強いものとならざるを得なかったが、それ以外に取調官が暴力を振るって被告人に自白を強要したようなことはないこと、四月一四日午前被告人が胸部の痛みを訴え、和泉署の嘱託医田川久康の往診を受け、同医師も、被告人の左第六、第七肋骨乳線上に圧痛を認めているが、これは先に認定した、三月七日被告人が西成で喧嘩をして左第六肋骨を骨折したその傷の痛みが、右のような警察官とのもみあいの中で再発したものであることが推認され、取調官が被告人の主張するような暴行を加えて自白を強要したものとは認められず、かえって、植松警部補の取調べについては、被告人自身同警部補の証人尋問に際し、自らの発問の中で「あんたは、わたしに、それはよくしてくれた」と述べ、検察官の取調べについても「紳士的」であったと述べており、また拘置所に移監された後には後藤巡査部長あてに犯行を認める趣旨の手紙も書いているのであって、もとより事案の重大性、被告人に対する嫌疑の強さ等から考えて取調べにあたっては相当厳しく追及されたであろうことは容易に推察されるが、前記自白調書の任意性に疑いを抱かせるに足るものは見当たらない。

二  自白調書の信用性について

そこで次に被告人の自白調書の信用性について検討する。

自白調書が作成された経過、取調べ状況は右に見たとおりであるところ、取調べの始めころ被告人は取調官の追及に対し激しく反発し、暴れたり自傷行為に及んだりしようとしていること、これを制圧するため、補助者が二人がかりで被告人の両肩両腕をつかんで押さえつけ、後ろから羽がいじめにするなど、やむをえないこととはいえ相当強力な有形力が行使されたこと、再三否認と自白が繰り返されていること、取調べに当たった警察官自身最終的に「本割れではない」(第三八回公判調書中の証人植松静夫の供述部分)「公判廷では否認するであろう」(第三五回公判調書中の証人浦口光央の供述部分)と思っていたことなどからみて、被告人の捜査段階における自白が真の悔悟に出たものではなく、真偽はともかく、不本意なものであったことは否定できず、任意性が認められるからと言って直ちにその信用性まで肯定し得るものとはとうてい言えないので、以下自白調書の内容を慎重に吟味し、その信用性を検討する。

1  検察官は、被告人の自白調書にはその内容の一部に変遷があるが、そのことは被告人の性格から十分理解でき、自白調書全体の信用性に影響するほどのものではなく、使用凶器、犯行態様、犯行後の行動などについての供述には、犯人にしか分からない事実が含まれており、かつその供述内容は客観的証拠によって認められるところと一致し、また、被告人は、三月二〇日被害者が行方不明というだけで伯太町で殺されているということが未だ誰にも判明していない時点で、西成署の事情聴取に対し、三月一九日伯太町の甲山警備に行ったことを隠し、逮捕後も三月一九日に甲山警備に行ったのは午前中であるなどと犯人でなければする必要のない虚偽の供述をしていること、四月二二日には接見に来た弁護人にも犯行を認め、起訴され身柄を拘置所に移監された後には、後藤巡査部長にあてて、犯行を認め、反省の情を綴った手紙を書き送っていることなどから見て被告人の自白調書の信用性は高い、と主張するので、以下順次検討を進める。

(一) 使用凶器に関する供述について

検察官は、被告人の自白では使用凶器は切出しナイフとされているところ、他の証拠からは凶器が切出しナイフであることは分からず、被告人が切出しナイフを購入した事実も被告人の供述を基に裏付け捜査の結果明らかになったものである、と言う。

なるほど関係証拠によれば、被告人が三月二日に西成の夏川計量店で切出しナイフを購入した事実は被告人の供述によって初めて明らかにされたことのようである。しかし、本件犯行に使用された凶器が切出しナイフらしいということは、被告人の供述を待つまでもなく、被害者の死体の解剖所見及び死体発見現場に遺留されていた切出しナイフのものと思われる木製鞘の存在から容易に推察されることであり、かえって被告人が初めて犯行を自白した四月一二日には、当初、凶器は文化包丁あるいは果物ナイフと供述していたことがうかがえ(植松静夫作成の捜査メモ)、自白調書でそれが切出しナイフとなったについては誘導の可能性すら否定できないのであって、自白調書において、凶器が切出しナイフとされており、それが死体の創傷の状況と一致し、ナイフの購入先等が被告人の供述から判明したことをもって被告人の自白調書の信用性を特に高めるものとは言えない。

(二) 犯行態様に関する供述について

(1) 検察官は、犯行状況について自白調書の中で被告人が、「被害者の胸や腹を突き刺す前に脅しのため背中を一度つついた」、「被害者の後ろからナイフを持った右手を前に回してその胸や腹を突き刺した」旨客観的証拠からは分からず、被告人の供述を得て初めて明らかになる事実を述べており、かつ被害者の身体を突き刺した順序等についての供述も解剖所見、鑑定結果と符合し信用性が高いと言う。

確かに、脅しのために背中を一度つついた、との供述や被害者の後ろから手を前に回してその胸腹部を突き刺した、との供述は、客観的証拠にその痕跡があるわけではなく、解剖所見等から導き出し得るものでもない。しかし背中をつついた、との点について言えば、この関係の供述は司法警察員に対する四月一八日付供述調書から出てくるのであるが、最初は「背中」ではなく「胸か腹のあたり」を突いたと述べていたのであって、必ずしも一貫性がない上、それ以前の供述は、逃げようとする被害者を追い掛け、その左腕をつかみ、いきなりナイフでその胸腹部を滅多突きにしたと言ういかにも唐突の感を免れないものであったこと、また、後ろから手を前に回して、との供述について言えば、確かに被害者の前から攻撃したとしても死体に残された創傷痕、解剖所見と何ら齟齬するところはないが、自白の中で供述するところも犯行のこの場面としては格別特異なものではないことなどを考えれば、「(取調官に厳しく追及され)犯罪者の心理を考え、想像で述べた」との被告人の弁解も強ちそうそうたやすく否定し去ることは困難である。なお、後ろから手を前に回して、という供述が創傷痕の形状との関係でむしろ疑問があることは後述のとおりである。

また被害者を突き刺した順序等については、先に認定したとおり、被害者の死体の損傷状況、その解剖所見、被害者の着衣の損傷状況等についての情報が、被告人を取調べる以前にすでに取調官の手中にあったのであるから、被告人の供述がこれら客観的証拠の示すところと符合するからと言って、そのことをもって特別自白調書の信用性を高めるものとは言えない。

(2) また検察官は、被告人が自白調書の中で、被害者の陰茎を切り取ったときの状況について、「(陰茎を)切出しナイフでえぐるようにして切り取ったのですが、少し脂肪のような肉が付いていたと思います」「チンチンの根本をえぐるように切り取りました処、血が出ておりましたが、ボウコウのくだが白く見えたことが今でも私の記憶の中に残っております」と供述していることを指摘し、このような供述は自ら体験した者でなければ語り得ないものである、と主張する。

確かにこの点の検察官の主張は誠にもっともであり、「以前自殺しようとして手首を切ったとき、皮膚の内部に白いものが見えたのでこの場合も同じだろうと思って、出まかせを言った」との被告人の弁解は容易に納得し難く、被告人が真犯人ではないかと強く疑わせるものである。ただこれをもって自白の信用性の決め手とし、被告人を真犯人と断ずるのは飛躍し過ぎると言うべきであるから、更に検討を進める。

(三) 三月二一日の行動に関する供述について

検察官は、被告人の捜査段階での供述によれば、「三月二一日甲山警備に制服を返しに行った際、一九日に被害者の着衣を捨てた場所に行き、木の枝に引っ掛かっていた被害者の着衣の一部をこうもり傘の先で落とし、近くに落ちていたビニールに包んで池の中に投げ捨てた」と言うのであるが、これは他の証拠からは分からず、被告人の体験供述として信用性が高い、と主張する。

確かにこのことは他の証拠から推察されるようなことではなく、「ビニールにくるむようにしてありましたから水面に浮いていましたが、あまりその場に長くいると人に見つかると不安ですのですぐに林の方に引き返し、」と述べるなど供述内容も具体的で、検察官の主張も首肯できないではないようにも思われる。ただ被告人が三月二一日甲山警備に行った際、春谷方へ行くと言ってそこを出ながら、結局春谷方には行かず、しばらくして「行くのは止めた」と言って甲山警備に戻っていることは関係証拠により明らかであり、被告人がその自白の中で、一九日に被害者の着衣等を投棄したとしている場所、着衣の発見状況等から推認される投棄場所が、池まで届かず笹や木の枝に引っ掛かる可能性のある場所だけに、取調官としては、「春谷方へ行くと言って出て何をしていたのか、春谷方へ行こうとしたのではないのではないか、他に目的があったのではないか」と追及するのは当然であり、「取調官から三月二一日甲山警備から犯行現場に行っただろうと聞かれ、想像で答えた」との被告人の弁解もおよそ考えられないと言うほどのものでもない。

三月二一日の行動については、かえって、若し被告人が犯人であれば何故その日甲山警備に行ったのかが疑問にならないであろうか。当日甲山警備で制服を返納しているから、当初からそれが一つの目的であったことは明らかであるが、何故制服を返納し、たかだか一〇〇〇円足らずの金を受け取るために、その時期にそのような行動に出たのか。また被害者の衣類の処理が最初から目的の一つであったのか、途中で思いついたのか、それが何れであるにしても、帰りに寄ればよいことなのに、わざわざ被告人の行動を印象づけるように、春谷方に行くなどと言って途中で出たのは何故なのか。重大事件の犯人の行動としてはいささか疑問を抱かざるを得ない。

(四) 否認供述の内容について

検察官は、三月二〇日西成署における事情聴取に際し、被告人は、前日の行動について尋ねられながら、前日伯太町の甲山警備に行ったことを隠しているが、参考人とは言え誘拐の嫌疑を受けていることは分かっていたと言うのであり、かつ当時は未だ被害者が伯太町で殺害されたことは発覚していなかったのであるから、被告人が犯行にかかわりあいがないのであれば、むしろ積極的に当日の自己の行動を明らかにするはずであり、また逮捕後も犯行を自白するまでは、一九日に伯太町に行ったことを否定し、あるいは行ったのは午前中であるなどと虚偽の供述をしているが、被害者を連れて行っていないのであれば、最初から一九日の午後甲山警備に行ったと言えば済むことであり、犯人であればこそ、ことさら犯行の場所、時間から遠ざかろうとして虚偽の供述をしたものである、と言う。

被告人が三月二〇日西成署で事情聴取を受けた際、前日一九日に甲山警備に行ったことに言及せず、また逮捕直後右の点について検察官主張のような虚偽の供述をしていたことは明らかであり、「前科の関係でかねて甲山警備の社長からそこに勤めていることを言わないで欲しいと言われていたので」とか「三月二一日の午前中に甲山警備に行ったことと勘違いをした」との被告人の弁解は、被告人は当時すでに甲山警備を辞めており、さしたる義理もなかったことや、一九日から二一日にかけての被告人の行動などに照らし、容易に納得し難いものがあり、この点の検察官の主張には首肯できる一面がある。ただ三月二〇日の事情聴取は、誘拐の嫌疑を受けているということを感じ取っていたとは言え、あくまで参考人としての事情聴取であり、甲山警備のこともこれに言及しなかったにすぎず、逮捕後の虚言も、弁解のように勘違いとは考えられないが、この時点では誘拐殺人の嫌疑で逮捕されているのであって、自分が昼食を一緒にした被害者が、そのあと自分が行った甲山警備の近くで殺害されたというのであるから、たとえ犯人でなくても出来るだけつながりを否定したくなるのも人情であり、検察官が主張するように、被害者を連れていっていないのであれば、最初から一九日の午後に甲山警備に行ったと言えば済むことと言い切れるものでもなく、過大な評価は出来ない。いずれも自白の信用性を決定付けるほどのものとは言えない。

(五) 接見に来た弁護人に犯行を認めたことについて

四月二二日和泉署で被告人と接見した弁護人に対し、被告人が本件犯行を認める旨述べたことは、被告人自身当公判廷で認めるところであるが、その具体的内容は明らかにされておらず、供述変遷の流れの中の一環として、捜査官に対する自白の信用性判断の一資料足り得るにすぎず、信用性判断の資料としてもそれ自体はさほど大きな意味を持つものとは言えない。

(六) 後藤巡査部長あての手紙について

被告人が、拘置所に移監後、後藤巡査部長にあてて手紙を出し、その中で犯行を認め、反省悔悟の情等を書き綴っていることは先に認定したとおりであり、すでに起訴され、取調官の影響下を脱した移監後のことであるだけに、まさに被告人こそ本件の犯人ではないかとの疑いを強く抱かせるものであることは否定すべくもなく、捜査官に対する自白調書の信用性を判断する上でも無視し難い意味を持つものと考えられ、この点に関する検察官の主張には首肯し得る側面がある。しかし「拘置所に移監後も裁判が開かれるまではいつ警察に戻されるか分からないから、後藤の指示どおり後藤を安心させるように後藤あての手紙を書いた」との被告人の弁解も、被告人の捜査段階における供述の変転状況を考えれば、全く無視しさることも出来ないのであって、拘置所移監後に右のような手紙を書いていることをもって直ちに自白の信用性を決定付けるものとすべきものではなく、この点もまたあくまで自白の信用性を検証する上での、重要ではあるが一つの判断資料と考えるべきものである。

(七) 以上見てきたとおり、被告人の自白調書の信用性についての検察官の主張には首肯し得るところもあるが、いずれも決定的なものとまでは言い難い。

2  そこで進んで、自白調書の内容に客観的証拠によって認められるところと齟齬する点はないか、不自然不合理なところはないか、といった点について更に検討する。

(一) 客観的証拠との符合性ないし供述の不自然な変遷

(1) 現場に遺留されていた軍手及び被告人の着衣の血痕

被告人は、その自白調書において、「被害者の後ろから左手で被害者の左腕をつかみ、右手に持った切出しナイフを同人の体の前へ回し胸部、腹部を数回突き刺した。うつ伏せに倒れた被害者の横にかがんで回すようにして仰向けにし、シャツとセーターをナイフで首の辺りから下の方へ切り裂き、トレーニングウェア、セーター及びシャツを背中の下の方から引きずり上げるようにして脱がせ、半ズボンをそのままずり下げるようにして脱がせ、パンツは腰の辺りをナイフで切り開くようにして脱がせた。その後陰部を切り取り、被害者を回すようにしてうつ伏せにし、背中を数回突き刺した。切り取った陰茎を落ちていた新聞紙などに包んで脱がせた着衣の上に置き、両手で持って道路に出て金網のフェンス越しに池のほうへ投げ捨てた」、「被害者の胸部、腹部を突き刺したとき、着衣を脱がせたときは右手に軍手をはめていた。着衣を脱がせた後軍手に血が付いていたので脱いでその付近に捨てた」旨供述しているところ、医師吉村昌雄作成の鑑定書、第一六回公判調書中の同人の供述部分、山池の岸近くの木の枝に引っ掛かっているのを発見領置されたシャツ等関係証拠によれば、被害時被害者の創傷から血が噴出するようなことはなかったにしても相当量の出血があり、被害者の着衣にもかなりの血が付着したことは、すくなくとも下着については右のシャツの残留血痕の状況等から明らかであり、前示のとおり被害者のトレーニングウェアとセーターには燃やそうとした痕跡があるところ、被告人の司法警察員に対する供述調書に、被害者の着衣を燃やそうとしたが「血が付いているためか」よく燃えなかった、とあることからすれば、トレーニングウェアなど上着にもかなり血が付いていたということになり、また自白の中では被害者の血が自分の着衣等に付かないよう気をくばった形跡は全くうかがえないのであるから、被告人の供述する犯行状況からすれば、軍手には相当量の、被告人の着衣にもある程度被害者の血が付着したと考えるのが自然である。

しかるに、先に認定したとおり、軍手には小指の付け根のごく小さな部分に血痕付着の疑いという反応を得ただけであり、被告人の防寒上衣からは、被害者と同一のA型のものとしては、右そで先端に小さな四個の血痕が見出されたに過ぎず、当時着用のズボンからも右膝内側の小さな部分二箇所に血痕付着の疑いを得たにとどまるのであって、この血痕付着の量、特に軍手のそれは、被告人の供述する犯行状況から見て、あまりにも少なすぎるのではないかとの疑問を免れない。

確かに軍手は、それが犯人の遺留したものであるとすれば、約二週間現場に放置されていたことになり、大阪管区気象台長作成の照会回答書によれば、三月一九日から四月五日までの間には、堺で九一ミリ(五回、一回につき最多三六、最少二ミリ)、河内長野で九七ミリ(同最多三四、最少二ミリ)、熊取で九一ミリ(四回、最多三九、最少一二ミリ)の降水があり、現場付近もほぼ同程度の雨が降ったものと推認され、これによって付着血痕がある程度流出したことは考えられるが、ルミノール反応検査の鋭敏度を考えれば、降水の影響を考慮してもなお先の疑問は解消出来ない。

(2) 被害者の前胸腹部の刺創の形状

吉村昌雄作成の鑑定書によれば、被害者の胸腹部の刺創はいずれも刃をほぼ真下もしくはそれに近い方向に向けて刺されたものと認められるところ、自白では、被害者を刺すとき「ナイフの柄を逆手に刃を下に向けて突き刺した」(司法警察員に対する四月一三日付供述調書)とか「侍が切腹するような格好でナイフを握って刺した」(同一八日付供述調書)などと述べており、これに先に見た、背後から手を前に回して刺したとの供述を併せると、それでは死体に残されているような下向きの刺創を負わせるには手首に無理がかかり、被告人の供述どおりであれば、刺創の向きはもっと斜めか横向きになるものと考えられ、被告人のこの点の自白は死体の損傷状況と合わないきらいがある。

もっとも検察官に対する四月二七日付供述調書では、この点について、「ナイフの柄をどのようににぎりしめていたか刃をどちらに向けていたかまでははっきりと覚えていません」と供述を変更しているが、さきに覚えていたものが、この段階になって何故覚えていなくなったのか疑問であるのみならず、この供述によっても右の刺創痕の形状と攻撃態様との符合性についての疑問は解消されない。

(3) 被害死体の姿勢

被告人の自白によれば、被害者のトレーニングウェア、セーター及びシャツを「背中の下の方から頭の方に引きずり上げるように両手を上に引っぱり上げ引き脱がせ」「体を……回すようにしてうつ伏せにした」(司法警察員に対する四月一三日付供述調書)、「背中の下から引き上げるようにして両手を上にあげるような格好にし、脱がせ」「体を回すようにしてうつ伏せにした」(同一八日付供述調書)と言うのである。そうだとすれば、被害者の死体はその時点では両手を上に挙げてうつ伏せになっていたはずである。ところが発見されたときの被害者の姿勢は先に認定したとおりであり、左手はほぼ真っすぐ下に伸ばしていたのである。うつ伏せの状態で死後死体がそのように姿勢を変えるものであろうか。疑問を抱かざるを得ない。

(4) 犯行現場への経路

被告人は、その自白の中で、現場に至る経路について、「老人ホームの先にキャンプ場がある そこから藪の中へ入った その中を通って現場へきた」(植松静夫作成の捜査メモ、四月一三日の供述)、「老人ホームを少し過ぎた左側に大きな門があってその中は青少年のキャンプ場のような所でした。……そのキャンプ場の中に入り、」(司法警察員に対する四月一三日付供述調書)、「老人ホーム前の通りを少し上がった左手にあるバリケードの様な大きな門のある青少年キャンプ場の中に入りそこは少年が集って飯合すい飯(原文のまま)をしたり、キャンプをしたりするような場所ですが、」(同一八日付供述調書)、「老人ホームの所にあるキャンプ場を見せてやろうと思い連れていったのです」(同二〇日付供述調書)、「老人ホームの所を通って青少年キャンプ場の所へ行ったのです」(同二二日付供述調書)と述べていたが、四月二三日現場引き当たり捜査が行われた後に同日作成された司法警察員に対する供述調書で突然「青少年キャンプ場のあるところより少し手前の松林に入った」と供述を変更し、その変更の理由について、前に甲丘荘の丁丘五郎を遊びに連れていったときと勘違いしていたことが現場に行ってみて分かった(同日付司法警察員に対する供述調書、同月二七日付検察官に対する供述調書)と述べているのであるが、本件犯行現場に野外活動センター建設予定地様の一角とは言え、現場付近はおよそキャンプ場の相は示しておらず、もとよりバリケードのような大きな門などはなく、位置的にも相当離れているのであって、本件のような重大犯罪を犯したときのことと以前に幼児を連れて遊びに行ったときのこととを「勘違い」して間違うなどということはとうてい考えられない。

変更前の供述にある「青少年キャンプ場」が、「大阪市立信太山青少年野外活動センター」のことを言うのか、そこから更に伯太―山荘線道路を南東へ約三四〇メートル余り離れた「同野外活動センター・キャンプ場」のことを言うのかは必ずしも明確ではないが、裁判所の検証調書、司法警察員作成の四月二一日付実況見分調書によると、後者であれば犯行現場との間には高津池など大きな池があって被告人の供述のように「雑木林などを抜けて」犯行現場まで行くのはほとんど不可能であり、前者であっても現場までは直線距離でも約一四〇メートル以上あり、その間には上池等の池があり、池は樹木や笹等が生い茂った雑木林に取り囲まれており、道路に出ずに現場に行くことは非常に困難であると考えられる。その困難を排してあえてここを通り抜けたとすれば、供述にもそれなりの状況をうかがわせるものが出てきてしかるべきであると考えられるが、自白では、探検ごっこのようにして歩きまわった、としか述べていないのは不自然の感を免れない。

変更前の供述は、現場の客観的状況と符合せず、変更後の供述は、訂正の理由とするところが到底納得出来ない上、自白では被害者を現場の方に連れて行ったのは、キャンプ場で遊ばせてやろうと思って連れて行った、と言うことになっているのであって、そうだとすれば、変更後の供述は当初の目的と合わないことになる。もとより現場はキャンプ場に行く途中であるから、気が変わって道路脇の藪から雑木林に入って遊ぶということもそれ自体は別に不自然なことではないが、自白ではそうは言っておらず、ただ勘違いと言うだけであるところに不自然さを免れないのである。現場は取調官に教えられた、との被告人の当公判廷における弁解には排斥し難いものがあり、被告人は現場を知らなかったのではないかとの疑念を抱かざるを得ず、この疑問は重大である。被告人の司法警察員に対する四月一三日付供述調書には殺害場所等を図示した被告人作成の図面が添付されているが、図面は極く大雑把な不正確なものであり、先に見た供述の変遷、被告人の当公判廷における弁解に照らし、右疑念を解消するに足りない。

(二) 犯人であれば当然なされるべき説明の欠落並びに不自然ないし不合理な供述

(1) 顔面の打撲傷について

前記認定のとおり、被害者の右眼裂の上下及び眼球血膜に生活反応の明らかな打撲傷が認められるところ、第一六回公判調書中の証人吉村昌雄の供述部分、司法警察員作成の四月一二日付実況見分調書等関係証拠によれば、右の打撲傷は、手拳もしくはこれに類する表面の比較的なめらかな鈍体によって形成されたものであると認められるところ、被害者がうつ伏せに倒れたときにこれにふさわしいものが地面にあれば発起可能であるが、現場にはそのようなものは見当たらず、かつ表皮剥離を伴っていないことから被害者が倒れた際に生じたものとは考えにくい。犯人が手拳によって殴打したものと推認するのが最も合理的である。しかるに被告人の自白では右の損傷について全く触れられておらず、被告人の供述するところからは、右の損傷が何時どのようにして生じたのか全く不明である。

(2) 死体に乗せられていた松の木の枝について

また、前記のとおり、被害者の死体の上には犯人が折り取って乗せたと思われる松の木の枝があったのであるが、植松静夫作成の捜査メモには「死体の上には何もかけない」との被告人の供述らしきものが記載されているものの、白書調書では全くこれに触れていない。わざわざ近くの松の木の枝を折って死体の上に乗せるという行為がいかなる意味を持つのかは不明であるが、明らかに意図的な行為と考えられる。確かに、自らの犯行を悔悟して自白している真犯人であっても、犯行の全てを語るとは限らず、さまざまな理由から、第三者から見ればさして重要と思われないことですら、しばしばこれを秘匿しあるいは敢えて虚偽の供述をすることがあるのは経験の教えるところである。ことに被告人の自白はもともと真の悔悟に基くものではなく、不本意なものであったと考えられるのであるから、被告人が全てを語っていないからと言って、直ちにその自白が全体として信用できないなどと言えるものではない。しかし真犯人であれば当然あって然るべき説明が欠けていると言うことは、その自白の全体としての信用性を考える上で消極的に働くものであることも否定できない。

(3) 犯行動機の形成について

被告人の自白調書では、被害者殺害の動機として、おおむね「被害者が帰ると言って突然立ち上がって走りだし、これを後ろからつかまえたところ、帰るんだ、帰るんだ、と泣いて暴れ出したので、このまま一人で帰られたらまた誘拐で処罰されるおそれがあるし、これまで可愛がってきたのに裏切られた気がして腹が立った」との趣旨の供述をしており、動機として一応了解可能のようにも見えるが、その動機形成の過程を含めていま少し詳しく見てみると、例えば検察官に対する四月二七日付供述調書では、「A君が、帰る、と言いだし私も、帰ろう、と言ったのですが、A君は何かを思い出したように急に立ち上がり、帰るんだ、と言って道路の方へ飛び出して行きかけたのです。どうしたんだい、と言って二・三歩走りかけたところをA君の左腕をつかまえました。そうするとA君はさらに強い調子で、帰るんだ、帰るんだと泣き声をあげ出しました。私も、帰るから、と言ったのですが泣きやまず、……このまま一人で行かせてしまえば迷子になるかもしれませんし、そうなれば、A君を和泉市まで連れてきたことが結局分かってしまい色々と尋ねられ、また以前と同じように誘拐と言うことで処罰されるということがとっさに頭に浮かびました。……泣きやませようと思い(ナイフで)背中を一回軽く突いてやりました。泣くなよ、と言ってやりましたが全く泣きやまず、逆に最初のときよりもひどく泣いて暴れだしたのです。……今まで可愛いいという気持ちで面倒を見ていたのに急に小憎らしくなりA君を刺してやろうと言う気になってしまったのです」と言うのであり、他の自白調書も、四月一八日付司法警察員に対する供述調書が、最初被害者が「帰る」と言ったとき「うん帰ろう、もう少し待ってくれよ」と言った、となっている以外はいずれもほぼ同旨である。被告人が「もう少し待ってくれよ」と言ったとしても、結局はすぐ被害者の意向に沿って「帰ろう」と言っているのに、何故被害者は泣いたり暴れたりしたのか、その理由が分からず不自然であり、また、その動機とするところはあまりにも短絡的で、激しやすくいささか特異な被告人の性格をいかに強調してみても、子供好きの被告人が本件のごとき残虐な犯行を行う動機としてははなはだ弱いとの感を免れない。

(4) 陰茎切除の理由について

被害者の陰部はその死体から欠落しており、その原因が、犯人によって切り取られたものか、死後野犬等に喰いちぎられたものか、解剖所見等客観的証拠からは明らかに出来ないことは先に認定したとおりであり、被告人の自白ではこれを切出しナイフで切り取ったとしていることも先に見たとおりであるところ、陰部を切り取った理由については、「そのままでは男であることがすぐ分かると思い」(司法警察員に対する四月一八日付供述調書)、「ズボンを脱がせているとき私の右手に持ったナイフがA君のちんちんの所を力のはずみがついて切りさいた格好になりましたので、いっそうのこと切り落としてやろうと考え」(同月二〇日付供述調書)、「ズボン、パンツなどを脱がしたのですが右手に持っていた切出しナイフが肉に引っかかったのでその場のなりゆきで切り取ってしまいました」(同月二一日付供述調書添付の上申書)、「(パンツをナイフで切り下ろして脱がせるとき)刃先で陰茎のところに傷をさせてしまったのです。今考えたら何のためにそのようなことをしたのか自分でも判断に苦しみますが、どうせ傷が入ったんだから切り落としてしまおうという気持ちになり」(同月二二日付供述調書、同二三日付、二四日付、二六日付各供述調書、検察官に対する同月二一日付、二七日付供述調書もほぼ同旨)と述べているのであるが、被害者の死体からその陰部を切り取るといういささか特異な行為についての説明としては、はなはだ不十分と言わざるを得ず、一貫性もない。

(5) 被害者の着衣の投棄場所について

被告人の自白によると、凶器の切出しナイフ、被害者の着衣、切り取った被害者の陰茎等はひとまとめにして両手に持ち、有刺鉄線の様な物が横倒しになっているあたりから」(検察官に対する四月二七日付供述調書)一旦道路に出て、道路沿いの金網のフェンスのところから池の方に投げ棄てた、と言うのであるが、「両手で持って」どこまで行くつもりだったのか。始めから池に放るつもりだったとすれば、何故道路に出たのか。司法警察員作成の四月六日付、同月七日付及び同月一二日付の実況見分調書など関係証拠によれば、道路に出なくても雑木林の中から直接山池の岸近くまで行くことができ、現場からの距離等からそのことは被告人にも容易に分かったと考えられるのに、何故に人家も近く人目につきやすい道路に出てから投棄したのか、不自然と言うほかはない。

また植松静夫作成の捜査メモによれば、被告人は自白を始めた最初は、被害者の衣類等は落ちていた紙袋に入れてごみ収集車の来るところへほかした、と述べていたことがうかがわれるのである。

(三) その他の疑点

その他被告人の自白には、被告人が凶器を棄てたとする場所は他に流失移動等する可能性のない比較的狭い範囲の場所であり、約二週間にわたってかなり徹底した捜索が行われたにもかかわらず、結局そこから凶器は発見されなかったこと、被害者の背部を刺したとき、被害者がまだ生きて動いており、生き返られたら困ると思って刺したのか、すでに死んでいたが前後のみさかいなく刺したのか、単なる記憶違いとは考えにくい点で変遷があること、前頸上部の刺創について全く触れていないことなどの疑問もある。

3  以上見てきたとおり、捜査段階における被告人の自白には、その信用性を判断する上において肯定的に働く点がいくつか有り、なかにはかなり重みのあるものも含まれているが、いずれも決定的なものとは言えないのに対し、自白内容には解明できない疑問点が少なくなく、自白調書の任意性検討の過程でみた被告人の自白の経緯をも考え併せると、被告人の自白調書の信用性には疑問が残ると言わざるを得ない。自白以外の証拠によって認められるところと自白の内容を併せこれを総合的に検討しても、右に見た数々の疑問は解消できず、被害者を誘拐して殺害したとの被告人の自白には合理的な疑いが残り、本件の全証拠によっても未だ被告人の有罪を認定するに足りないものと言うべきである。

第五結論

なお、公訴事実では、被害者を萩之茶屋中公園から連れ出したところに、誘拐の実行の着手を求めており、被告人が被害者をその保護者の明示の承諾を得ずに同公園から甲野食堂へ連れていったことは前記認定のとおり明らかであるが、距離も近く、少なくともその時点では食事に誘っただけであることも明らかで、そのかぎりにおいては保護者の承諾も期待でき、被害者をその保護環境から離脱させ、自己の支配下に置いたと評価するに足る立証はない。

以上の次第で結局本件各公訴事実についてはいずれも犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 西田元彦 裁判官 宮﨑万壽夫 裁判官三角比呂は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 西田元彦)

〈以下省略〉

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